浮世絵で見る江戸・亀戸

第2回 亀戸梅屋舗〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:天神なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

幻の「臥竜梅」

「ジャポニズム」って今で言うとアニメ人気とか日本食ブームみたいなもの?

まぁね。日本文化礼賛という意味では近いところもあるけど、絵画の世界に関してはちょっと違う。一言で言えば「写実主義からの脱却」だね。ルネッサンス以降のリアリズム絵画に飽き飽きしていた若手画家達が新たな表現手法を求めていた。そこに飛び込んで来たのが、日本の浮世絵だ。

そう言えば海外の美術展で見る中世の絵って、写真みたいに実物そっくりに描かれているけど、浮世絵って何か立体感がなくてマンガチックだわね。

その立体感の無さとか、線による構成、規則性や対称性を無視したバランス感覚が、ヨーロッパの画家には革新的だったわけ。広重の極端なクローズアップによる独特の遠近法とか、キミの言うところのマンガチックなデフォルメね。北斎の波なんてサーファーだって見たことないような高さだし、写楽の役者絵なんか顔がやたらとデカイだろ。加えて極端に鮮やかな色彩感覚ね。

そういう絵ってヨーロッパにはなかったの?抽象画だって今では普通にあるじゃない。

無かったね。浮世絵にはヨーロッパでは「やってはいけない」手法が平然と使われていたわけさ。当時の絵の常識だった「ローマン・グレコ様式」の全て真逆をいっていた。しかし、結果としてそれが見事な世界観を作っていたから、ゴッホ、ボナール、マネ、ロートレック、ゴーギャン、ピサロといった連中は手放しで賞賛したわけ。

ってことは「印象派」って言われる人たちはみんな浮世絵のマネをしたっていうこと?

マネって言うと語弊があるけど、浮世絵によって彼らの常識が覆され、制約から解放されたということだろうね。「印象派」以外にも浮世絵の持つ「抽象性」は、アール・ヌーボーとか商業・工業デザインにも取り入れられていくんだ。

なんか凄く興味あるな〜。来週から「セザンヌ展」も始まるし…。

セザンヌは浮世絵には興味なかったなんて言われているけど、「サント・ヴィクトワール山」なんて北斎の「冨嶽三十六景」にそっくりだよ。まぁ、ワタシは絵画の専門家ではないから、そろそろ本題に戻って亀戸の話をしよう。

そうですね。『亀戸梅屋舗』でした。でも、今年は寒かったから、今ごろ丁度梅が満開じゃないかな?

ワタシも梅で花見酒と行きたいところだけど、残念ながら今は影も形もないんだ。場所は亀戸天神の裏から北東へ約400mぐらい。柳島から続く浅草通り沿いにあった。元々は浅草の呉服商だった伊勢屋彦右衛門の別荘で『清香庵』という風流な名前が付けられていたんだ。

へぇ〜。今じゃ想像できないけど、どのくらいの広さだったの?

3600坪っていうから12000平米、ちょっとした野球場並みだね。そこに300株の梅が植えられていたから江戸市民には「梅屋敷」って呼ばれて愛されたわけ。とりわけ梅の木の中に「臥竜梅」という名木があった。「臥竜梅」っていうのは水戸の黄門様の命名で、龍が地を這うみたいな独特の形をしているからなんだけど、この木見たさにあの「暴れん坊将軍」吉宗も鷹狩りの帰りに訪れたっていうんだから、なかなかのもんだろ。

なんか時代劇スター総出演って感じね。ますます見てみたくなったわ。

明治43年(1910)に隅田川の洪水があって、この辺りも浸水したからほとんどが枯れちゃったんんだ。ここに大正8年(1919)の貴重な写真(左)があるけど、大正10年には全滅したって言うから、これが「最後の姿」といってもいいんじゃないかな。

残念ねぇ。でもその「臥竜梅」の面影はちょっとあるみたいね。いろんなところから枝が伸びてる感じ。

浸水前にここに梅を見に来た有名人がちょっとしたエッセイを書き残している。画家の鏑木清方(かぶらき きよかた◇明治11年〜昭和47年)だ。ちょっと読んでみるよ。「ここいらは、これといって見どころもない、葛飾平野の一端で、ただ中川の長流がその間を縫ってうねうねと流れるだけである。本所、亀井戸の町並みを出はずれると、一望はてしなく、人家も木立も至ってまばらに、どこからどこまで田んぼが続く…」

なんだかすご〜く田舎って感じね。


「この平凡な景色が、私にとってはまことに親しさ限りない」

あら、そこがいいっておっしゃるのね。やっぱり芸術家は違うわ

「とはいっても、ひとり歩きは退屈な行路なので、私も、いくたりかの連れを誘いあわせて、草臥(くたび)れては畦みちの枯れ草を敷いて持参の行厨(弁当)を開いたが、元来探梅の行楽などというのは、いわば退屈をかみしめ味わうようなものであった」

なんだ、やっぱり退屈だったのね…。

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